03/07の日記

01:27
覚え書き
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≪凡庸な著者にかぎってだれでも、自分に特有な自然の文体に偽装を施そうとする。つまり凡庸な頭脳の持ち主たちは考えるとおりに書くという決心が、まったくつかないのである。それというのも、そういう調子で書けば、書き上がったものがまったくつまらないものになりかねない、という予感におびえるからである。しかしそれでも、それはそれなりにものになっている場合もあるはずである。つまり彼らが誠実な態度で仕事に着手し、彼らが実際考えたわずかなことや、平凡なことを、考えたとおりに伝えようとすれば、できあがったものも結構読めるであろうし、そればかりではなく彼らにふさわしい専門の領域では、有益なものも書き上げるであろう。
しかし、実情はこれと逆である。つまらないことをわずかしか考えていないのに、はるかに深遠なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして懸命である。したがって彼らはその主張を表現しようとして、不自然、難解な言いまわしや新造語を、だらだらとした文章、堂々めぐりを重ねたあげく、何を考えているのかを不明にする複雑な複合文章を使う。
つまり彼らは自分たちの考えている同じ一つの思想を伝達しようとする努力と、隠蔽しようとする努力との間をさまよっているのである。≫

≪だれにもわからないように書くほどたやすいことはなく、逆に重要な思想をだれにでも自然にわかるように書くほどむずかしいことはないのである。
大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。≫

≪〔文体が〕主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。つまり執筆者は、あたかも独語調で読者を無視してものを書く。だがペンを執る以上は対話調に書くべきであろう。
もっとも対話と言ってもだれも問い返してくる者はいないのであるから、それだけいっそう明瞭に表現する義務があるのはもちろんである。だからこそ文体が主観的になるのを避け、つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。≫

えー、出典はショーペンハウアー著『読書について』。読みやすさのために若干改行を足しております。
こういうのって大事よね

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