※軽病み





歪んだ檻には錠がないわけではない。しかし、錆び付いたまま、ぴちりと閉じた檻の籠は歪んでいて簡単に出入りが可能な役立たずだった。

嗚呼、君を閉じ込めてみたいよ













「男鹿、おはよう」
「おう、おはよ。古市」


朝の在り来たりな挨拶にさえ惜しげもなく含まれる名前に、鼓動が逸る。何だか鈍く軋むフェンスの向こう側にダイブしてみたい気分だ。緑の逆さま、アンビヴァレンスが心地良い。


「男鹿…、マジ?」
「おう」


在り来たりな日常会話の切れっ端。そんなに驚くことだったろうか、と思ったが、次の瞬間には、まぁ当然の反応なのかもしれない、等と考えた辺りに頭の軽さを自覚する。


「今更、目覚めたの?」
「今更って何だ」
「今更じゃん、授業出るなんて」
「今更…、か?」
「…、いいんじゃね?今更でも」


悪戯っぽく輝く淡い瞳に殺されそうだ、と思う。訳もなく昔からかなわないのだ。そんな瞳でオレを見るのが悪い。いつだって勘違いしそうになる。この眼はオレしか見ないのではないか、オレを映す為だけに誂えられたのではないか、と思わせる。


「じゃ、出るからには頑張ろうな」


幼い子どもに対するような手解きにも似た優しさが、アンチノミーを孕んだ歪んだ願望を増長させていく。嗚呼、どうしようもないのだ。











つまんない。退屈で死にそう。でも、そんなに悪くない。眠たくなる教師の意味不明の内容に今だけは感謝する。意味が理解出来ないから聞かないことが出来る。聞かない時間は目の前のアホの観察の時間になる。
絡まない銀髪がさらさら散って、そこから覗く白い項に浮いた背骨の一部は綺麗にシャツの下へと続いている。在り来たりとしか言いようのない、そんなことが上限無くオレを浮つかせるのだ。モノポリーの大安売りで機嫌上々。









「アンチノミーって知ってるか?」


古市のデカい瞳が見開かれて、じっと見詰められたので少しだけ照れた。長い付き合いではあるが、オレの言動に対する反応は大抵死んだ眼差し的なモノに偏ってしまうことが多い為、こういう表情は意外と新鮮だったりするものだ。


「二律背反ってヤツだろ?」
「にる、…何?」
「あぁー…、矛盾しながらも対立する二つが主張され合ってるってことだろ?」
「そんな簡単なモンじゃねぇよ」
「お前がわからなかったから、わかるように噛み砕いてやったんだろうが」
「何を言ってんだ、古市?オレは知ってるんだっての」
「あぁ、もう、じゃぁオレも知ってるから続きをどうぞっ」


先程までの薄らとした感心的な色がすっかりと消え失せたのは残念この上ないが、仕入れたばかりの浅い知識の欠片の寄せ集めに過ぎない話なので、とりあえず文句は言わない。


「とあるオッサン曰わく、理性だけで問題解決をしようとするとソレになるんだそうだ」
「うん、やっぱりお前がズレてる気がガンガンするけど、せっかく何か学んだらしいから保留にしといてやるよ」


何だか偉そうな古市を叱ってやってもいいが、あまり何やかんやと挟んでいると色々と忘れそうなので、精神的に幼稚な古市の代わりに大人の対応に切り換えて話を進めてやる。


「でな?じゃぁ、問題解決すら出来ない理性が必要かって話になる」
「敢えて色々を流してやるとして、男鹿でもそれなりに難しいこと考えてたりするんだな」


何だか非常に失礼な言葉が羅列がしみじみと生み出されたが、オレは大人だ。大人として対応するのだ。心に強く念じた。


「理性ってのは正しいとか善いとかを理解するアレだろ?」
「…アレですね」
「で、その逆が本能なわけだ」
「そうですね」
「本能は必ず正しいとか善いとかじゃなくて生きることを指す」
「そうですね」
「なら理性で賄えない問題解決は本能で解決出来るかっていうと可能なわけだよ、古市くん」
「そうですね」
「マジメに聞けよ、古市のクセに」


さすがに大人で温厚で上品で慎ましやかなオレもイラっときたので優しくツッコミを入れてやれば聞いてるよ、と返される。若干呆れた的なオーラを感じるんだが、古市がマジでガキってことだな。


「問題解決は事柄を上手く処理することでしかないから善悪は必要ないので理性の必要性は薄弱だ、と男鹿くんは言いたいわけですね」
「?、多分な」
「多分かい」


何か知らんがツッコミ入れられた。そりゃ、ツッコミくらい入るさ、使ってる言葉が全然違うんだから。同じ意味でもニュアンスってヤツで大分受け取り方が変わるモンなんだ。


「それで?」
「む?」
「…その話に続きはねぇのか?」
「…」
「…」
「…、本能ってのも悪くない?」
「バカ」

 
ものすごくイラっときたので軽くチョークスリーパーをかけてやればギブギブ、と叫び声がした。はじめから素直に話を聞いておけばこんなことにはならなかっただろうに、古市はやはりどこか抜けているらしい。しかし、ギブはギブだ、と緩めてやればするり、と抜け出て少し逃げる。ガキみたいに少しだけムッとした膨れっ面をして馬鹿男鹿っ、と全く懲りずに叫んだアホ。だが、再度捕まえる前には既にとびきりの笑顔になっている。こうなると、理由もなく手が出せなくなる。


「じゃぁな、男鹿っ、明日は色々と忘れてくんなよな」
「明日も授業受けると思うなよ」
「何でそんな偉そうなんだ、お前は」


何でなんて愚問じゃなかろうか、男鹿様だからに決まっている。そんな答えが顔に出ていたのか、言葉にしなくとも古市は呆れ顔をした。夕闇に紛れてしまうような淡くて、弱くて優しい表情が綺麗だと思うと同時に、意味もなく少しだけ不安を抱かせる。


「、古市っ」


自分と大きな差はない身長でも、自分と比べるにはあまりに華奢で貧弱な背中に呼び掛けると、面倒がりもせずに振り向いてくれる。当然、と言うような自然な動作に胸がぎゅっ、と熱くなる。


「また、明日な」


昨夜、たまたま一部にだけ目を通した小難しい本から得たゲームのパスワードみたいな言葉と、本日、久々に見詰めた古市の背中を思い出しながら口にしたソレは、酷く在り来たりな文字の羅列だ。


「ん、また明日」


何でもないことのように自然に返応して、また背中が向けられる。

また明日、そう言うだけでお前との明日が約束されるのならば、何度でも口にしよう。帰るべき場所の扉に向かっているはずの夕闇に栄える銀髪を眺めながら、世界に二人きりみたいだ、と思った。


「ダァーっ、ァっ」





おっと、魔王も忘れてた。













オレは歪んだ檻、逃げ出したいと思えば直ぐにでも逃げられるだろう。

歪んだ檻、



そんな、お前しか愛せない歪んだ檻




















 

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