古市は主張をしない子どもだった。

幼い頃から「良い子」の古市は何でも周囲から吸収してきてしまい、親として教えてやるべきことさえ極端に少なかった、と古市の両親が寂しそうに話していたのを覚えている。
主張を促すべく何も買い与えないでいれば代わりに我慢ばかりを覚え、家族間の会話を維持することに心を砕かねばならなくなる程に古市は何処までも「良い子」だったという。そんな古市の「良い子」に困り果てていた両親の唯一の希望が「男鹿辰巳」だったのだそうだ。
小学校に上がる子どもは強制的に地域の子ども会に参加する決まりになっており、そこにいた一人の「快活で男の子らしい少年」の存在に、あの子と友人関係を築くことが出来たら息子も変わるだろう、と思ったらしい。どんな贔屓目で見られたのかは知らないが、その「快活で男の子らしい少年」が「男鹿辰巳」だった。古市と比べれば間違いなく男らしくはあるだろうが、その頃から既にオレは是非とも息子の友人に、と思ってもらえるような素行ではなかった。とは言え、オレはオレで古市を一目で気に入っていたので仲良くしてくれ、と言われたことは好都合に思われた。しかし、日が経つごとに互いの異常性に驚くことになったのは言うまでもない。

まず、古市にとっての「暴力」の括りが著しく広かった。その定義は一般的に見てもあまりに広過ぎた。
口喧嘩にすら至らないような些細な言葉でさえ「良い子」の古市の耳には穢らわしい暴言として届き、ほんの僅かな力の加減で全てが許すべからぬ暴力と捉えられた。馬鹿だ、阿呆だ、という比較的日常で聞かれるような幼い言葉でさえ、古市には核戦争が起こった程の衝撃として伝わってしまう。多少、一般家庭より粗暴な男鹿家の姉弟ではあるが、姉弟共に古市がお気に入りだったので争いがあっても驚かせないよう控えめにしていたのだが、その控えめでさえ顔色を悪くしていた。
その様を目の当たりにし、元々暴力的なきらいがある自分の一挙手一投足が古市を傷付け兼ねないのだと思ったら、死ぬ程怖くなった。不器用者のオレが急に「良い子」になれるわけもないが、それでも一週間死に物狂いで頑張って「良い子」を目指してみたりもしたが、進歩が見られない、という姉貴の言葉で結局諦めた。代わりにオレが古市に阿呆と言ったら、古市がオレに馬鹿と返すように教えた。初めこそ大きな眼を潤ませてばかりだったが、真の男の友情とはそういうモノなのだ、と少年漫画を片手に言い聞かせれば何とか不承不承ながら受け入れた。男とは暴言を吐いていればいいというわけではないが、主張することの第一歩になればと思ったガキなりの苦肉の策だった。

しかし、また直ぐに問題は起きた。
古市は受け入れることしか覚えなかった。古市の出来の良い頭脳は一度で多くを学び、蓄積し、応用にまで至る。他人から受けた痛みも悲しみも不快も全て呑み込み、望まれないこと、という箱に仕舞い込み、他人に対して古市はソレを行わない。古市が行う応用は常に自らが相手にすることを前提に言動を形成していくのみで、相手が自らに加える言動には全く応用が利かなかった。オレに出逢うまでに古市の「良い子」はほぼ完成されていたらしく、馬鹿、という暴言一つを覚えたきり、外に向く「暴力」のベクトルは一向に育つことがなかった。
そこまでを理解するのに約半年、掛かった。半年掛かって古市という人間の大凡を理解し、そしてオレは漸く、振り出しに戻ったことに気が付いた。



古市という生物は元々、生きる為に必要な「暴力」さえ理解出来なかったのだ。



このままでは古市は他人から傷付けられるだけの人間になってしまうのではないか、ガキながらにしてオレは本気で古市を心配した。どうしたものか、と考えはするが良い案は浮かばない。古市に嫌われないように古市の見ていないところで悪ガキ共に釘をさしておく。それがオレの限界だった。そんな不安定な日常の中、

その事件は起きた。













「…、ふ、る市」


万人と言っても過言ではない程に仲間に好かれる「良い子」さも、同世代に限らず大人に度々誉められる「良い子」さも、その大人でさえ扱いが困るオレと絶えず共にいる「良い子」さも、全てが気に食わなかったのだろう。凄惨たる光景に、既に中学生との喧嘩でさえ勝利していたオレが動けなくなった。

 
その、学区内にある寂れた空き地には半端に壊された家の骨組みが残り、端の方には木材やら鉄くずやらが疎らに投げ捨ててあった。昼間は女子がリアルなままごとに興じ、夕方は男子の歪な遊具と化すそこに、古市は転がっていた。

オレの好きなさらさらの髪が穢い血で固まっていた。オレの好きなか細い腕が変な方向を向いていた。オレの好きなきらきらの瞳が濁って遠くを見ていた。服も、身体も、みんなみんなボロボロで…、それでも

古市は視界にオレを見つけると、微笑った。



そんな古市に気付き、馬鹿共はヘラヘラしてんな、と叫んで古市を殴った。
木材だった。
血が跳ねた。

そこまでは少し距離があった。血が跳ねたのが見えようが感じる術などない。それでも、それでも、水分の落下音が聞こえた気がした。









「―――――――――――――っ」


聞こえるはずのない、滴の音が聞こえた、そう頭が理解してしまう前にオレは走り出していた。何処かで叫び声がした。咆哮、そんな言葉が脳裏を過ぎった。

気が付けば古市を傷付けた奴等が五人転がっていた。呻き声が腹立たしかった。オレの大好きな「暴力」嫌いの古市の為に何時の間にか身につけていた手加減がなければ、殺していたかもしれなかった。全くの意識が定まらない状態で「暴力」を振るったのは初めてだった。
意識がぼんやりとしていたからだろうか、終わったと明確な認識を脳がしたわけでもないのに、オレは古市を無理やり立たせて走り出していた。腕を力任せに掴んで走った。古市に血がこびり付いているのが、「暴力」の痕があることが許せなかった。



玄関で靴も脱がずに一目散に飛び込んだ風呂場で、衣服もそのままに頭からシャワーを浴びさせた。
震えて上手く動かない手で、ただただ必死に血を流そうとした。上手く頭が回らず、血が流れたのが見えているのに、自分の手は何時までも同じ場所を繰り返し擦り続けていた。洗っても洗っても穢れている気がして狂いそうだった。綺麗な古市を、「暴力」を嫌う古市を、守りきれなかった自分が死んでしまいたい程おぞましかった。古市を傷付けた奴等も、それに気付かなかった周囲の奴等も、自分の馬鹿さ加減も荒い呼吸も流れ続けるシャワーも、全てが憎らしかった。


「…、」

 
ちぅ、と鳴ったリップ音と額に残った感触で、古市にキスをされたのだとわかった。唐突だった。つい先刻の血の気の下がる感覚とは違ったが同じように身体が動かなくなった。
一気に顔に熱が集まって、身体はブリキの玩具みたいにギシギシとしか動かなかった。正常に機能していたとは言い難い頭だったが、意味がすり替わっていた。古市にキスをされた、という事実に場違いにも心が喜んでいるのがわかった。


「男鹿、オレ大丈夫。洗ってくれてありがとう」


そう言って古市は柔らかく微笑った。しかし、その微笑顔も真っ青だった。当然ながら大丈夫なわけがなかった。


「いや、でも…」
「じゃ、男鹿もキスして。そうしたら大丈夫」


古市が何故そんなことを言うのかわからなかった。脈絡もない、と思った。変なことを言っているのは古市の方なのに、古市は真っ直ぐにオレを見つめていた。オレの大好きな眼がじっ、とオレだけを見ていた。


「あの…、目、閉じろ」


何だか気恥ずかしくて、そう言えば、古市はあっさりと眼を閉じた。数秒迷ってから同じように額にキスをした。
ゆっくりと眼を開けた古市は怪我なんかしていないみたいに綺麗に微笑って、開口一番こう言った。


「男鹿、ありがとう。でも、暴力は絶対にダメだよ」
「…、お前はまだ言うかっ」


妙にこそばゆい雰囲気に流されて反応が一拍遅れたが、さすがの古市大好きのオレでも頑なな古市に焦れて怒鳴った。


「「暴力」だってしちゃダメなばっかじゃねぇんだって」
「ダメだよ」
「していいんだって」
「…、どうして?」


古市は何もオレを困らせようとしているわけじゃないのだろう。しかし、どうして、に答えるのは難しい。「暴力」に対して無抵抗の古市にやられたらやり返せ、等通じるわけもない。何も答えられずにいるオレに、古市は唐突にはっとして、微笑んだ。


「男鹿はヒーローなの?」


ソレはまるで子どもみたいな言葉だった。本当に、ソレが大人びた古市から発せられた言葉なのか、オレは直ぐにはわからなかった。























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