短編
□ヒーローはここにいる
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名前は耳を疑った。突きつけられた現実に、足元がぐらつく。
「ご懐妊おめでとうございます」
医師は淡々と告げた。
「……妊娠」
帰宅してから名前はしきりに呟いていた。
「十代……っ」
愛する人との子どもなら喜ぶべきだろう。しかし、名前は言い知れぬ不安に襲われていた。よどむ瞳。途切れる思考。彼女は、感覚の失われた手で下腹部を撫で続けていた。
不確かな未来と確かな命。名前は、おそるおそる携帯電話に手を伸ばした。
『もしもし。名前か?』
『私しかいないでしょ。久しぶりね十代』
変わらない恋人。名前は頬を少し緩める。だが、それも長くは続かなかった。
『会いたい』
『名前?』
『……十代に会いたい』
本音が、こぼれ出る。溢れる想いを、せき止めることはできない。
『名前、大丈夫か?何があったんだ』
『ごめん。何でもないわ。私、どうかしてた』
名前は謝罪を述べ、取り繕う。十代は少なからず違和感を覚えた。
『今から名前のとこに行く』
『え、ちょっと十代っ!』
電話が切れた。名前は十代が来るとは思えなかった。彼の所在は不明だ。今、日本にいるのかすら疑わしい。物理的に無理があるのだ。
「よお、名前!」
「ほ、本当に来たんだ」
数時間後、十代がやって来た。驚きと、とまどいが名前の胸を占める。
「何だよ反応うっすいなぁ。恋人がわざわざ来たんだぜ?キスぐらいしてくれよ」
「あんたどうやって」
「ネオスでひとっ飛び」
「はぁ。またネオスをこきつかったのね」
至って普通の会話だ。平静を装う名前だが、すぐにぼろが出た。
「……名前。どうしんたんだ?」
名前は、ほろほろと落涙した。混濁した感情に、どうしていいか分からないのだ。
十代は名前を、そっといざなう。律動的な手つきで、彼女の背中をさすり続けた。
「十代。聞いて、欲しいことがあるの」
落ち着いたのだろうか。名前が口を開く。「何だ?」と十代が尋ねる。
「あの、ね」
名前の声が震える。無理もない。身ごもっているなど、軽々しく言えたものではない。
「大丈夫。俺はちゃんとそばにいるから、な?」
十代は優しい声色で語りかける。彼の愛が心に染み込む。名前の緊張を解きほぐす。
「わたし、私ね」
とうとう打ち明けることに。
「……赤ちゃんができたの」
室内は静まり返る。事の深刻さを受け、十代は黙り込んでしまった。
「確かにあの時中出ししたなぁ」
開口一番、十代は無責任なことを言う。この場には似つかわしくない言葉だった。呆れと怒りに、名前は頬を引きつらせる。
「えっと、俺の子どもだよな?」
名前の堪忍袋の緒が切れた。十代の発言が彼女の神経を逆なでしたのだ。
「……っあんた以外に誰がいるのよ、こんの野郎ーっ!私が他の男に股を開いたとでもいうのっ?」
「お、落ちつけ名前!悪かったよ!そ、そういう意味じゃなくて」
名前は凄まじい剣幕でまくし立てる。胸ぐらを掴まれた十代は、誤解を解こうと必死だ。
「十代の馬鹿!ばかばか!せ、責任取りなさいよぉ……」
名前の声は次第にか細くなる。不安定な心は、均衡を保てない。
「ごめん。名前。俺、無神経だった。酷いこと言って、ごめん」
十代は悔やんだ。軽率な言動だったと。彼は衝動にかられ、名前をかき抱く。
「正直凄く驚いた。情けない話だけど、一瞬頭が真っ白になった」
心中を吐露する十代を前に名前は、無意識のうちに身構えてしまった。
「それに昔から両親が忙しかったから、あったかい家庭のイメージとか、わかないんだよな。ましてや俺が親になるなんて、考えてもいなかったぜ」
「私、産むから」
「おい、名前」
「十代が反対しても絶対に産むもん!」
十代は目を見開く。かみ合わない意見に、肩を落とした。
「ったく。人の話は最後まで聞けよ」
「聞きたくない。もうっ、いい加減放してよ!」
名前は十代をぐいぐい押す。
「何で未来の嫁さんを放さなきゃいけないんだよ」
「えっ」
名前の動きがぴたりと止まった。頭の中で『未来の嫁さん』という単語が反響する。完全に混乱していた。
「単刀直入に言うぜ。名前、俺と」
名前は、息を呑む。予想していなかったのだ。命が、未来が、繋がるなんて。
「結婚しよう」
名前の目から大粒の涙がこぼれた。
「泣いてばっかだな」
「うる、さいっ。全部十代のせいよ……!」
「で、返事は?」
催促するのは確信しているからだ。
「い、一生そばにいないと許さないんだから!」
「はいはい」
十代は、腫れぼったまぶたに唇を落とした。身じろぐ名前が、愛おしくなり頬にも触れた。
「金はないし苦労をかけると思うけど、幸せにしてやるよ。だからさ」
「ん……」
とろけるような、甘いキス。それは、二人を祝福するもの。
「俺の子どもを産んでください」
幸せはすぐそこに。