イロハ
□たぶんあれは恋だった
1ページ/1ページ
一目見てすぐに心を奪われた。
天才外科医と呼ばれる先生の手術はメスの動き、鉗子の扱い方、額の汗でさえ私は胸を高鳴らせた。そして彼のまるでとり憑かれたように最後まで患者を救おうとする意思には惚れ惚れとした。
そこで私は助手をやらせてはくれないかと願い出た。人並み以上に知識はある。自信もそれなりにあった。なにも一緒に手術がやりたいと言った訳じゃない。機材の準備や器具の受け渡し、彼のメスさばきを側で見たかった。額の汗を拭ってあげたいと思った。
しかし私の期待した返事は返ってこなかった。
「お前さんには無理だ」
次の患者のカルテに目を通しながらそう言った。急患で今ここへ向かっているらしい。難しい手術で先生でなければ助けられないだろう。そのため請求した手術料も大金だった。
「なぜですか?」
「なぜか、だって?」
椅子を回して体を机から私に向けた。長い前髪から覗く片目は少し怒っている様にも見えたし、少し困っている様にも見えた。
私はもう一度繰り返し聞いた。なぜですか?
「いいかい、私は無免許医だ。ここへ来る奴なんざろくでもない奴ばかりでね。あんたには荷が重過ぎる」
「先生の手術をお手伝い出来るならそれくらい平気です」
「頑固だねえ。でもまだ理由はあと二つある」
まだ二つも!私にはまだまだ経験が足りない?それとも一人でやりたい?私とはやりたくない?もしかしたら…
短い時間に私の頭の中では色んな可能性が考えられた。けれどどれも可能性でしかなくて私は先生の次の言葉を待った。
「医者は患者の事をいちばんに考えてなきゃいけない」
「…」
「あんた他の事を考えてるだろう。私の事など…くだらないからやめるんだ」
「そんな…」
玄関のドアが乱暴に開かれる音がした。急患が着いたのだろう。騒がしい声と足音。
「それともう一つ」
患者を手術室に運ばせながら言った。付き添い人の声で掻き消されないよう、耳を澄ませた。
「助手は一人で結構!」
決定的だった。先生はそう言い捨てると、手術室に入るまで私を見る事はなかった。患者の事しか頭にないのだ。
それでも手袋をはめる真剣な横顔に私の鼓動は早くなった。
.