イロハ

□翻る、靴音が遠ざかる
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「退院したくない」

その一言が原因だった。


赤信号になれば握ったハンドルを人差し指で叩くトントンという音が耳に入ってきたし、車内は重苦しい空気が充満していた。きっと先生の長い前髪の下の眉間には皺が寄っていると思ったし、先生が怒っているのは肌で感じることが出来た。それは狭い車内で身動きが取れないほどの居心地の悪さだった。

でもそうさせたのはまぎれもなく私なのだ。




私は難しい病気を患っていた(病名は長くて覚えていない)。それは手術をしないとまず助からないというものらしく、しかしその為手術はとても高度な技術を要するものだった。成功する見込みのない手術に手を出そうとする医者はいなかった。
私はたくさんの医者の冷たい対応に途方にくれた。そんな難病にかかった自分の運の無さを嘆いた。もうなす術もなくこのまま人生を終えるのではないかと思い始めもした…



そのときだった。
ある医者からブラック・ジャックという天才外科医がいるという噂を耳にした。良い噂ばかりではない。けれどなんとかして治したいという一心で、藁をも掴むような、縋る思いで彼を訪ねた。




「手術は成功する」

大勢の医者に見捨てられ、絶望していた私に迷いなくそう言ってのけた先生の瞳は真っ直ぐだった。その真っ直ぐさは今までのどの医者にも無いものだった。言葉を濁してさりげなくいなくなる医者。目を合わせないで長々と手術の難しさを話す医者、…もううんざりだった。
しかし私はこの時、この瞳を見て、この人なら絶対に治してくれると直感し、すっかり安心しきっていた。


でももしかしたら、

もしかしたら私は、この時の絶対的な安心感を恋と勘違いしたのではないだろうか?






「君は私の手術を無駄にする気か?」

シートベルトをしろ、以来の言葉だった。20分くらいは無言だったろうか。それくらいの苦痛を受けても仕方がない事をしたと思っているし、恥じていた。患者が医者の為にする事は元気になって退院することなのに。

「そんなつもりじゃなかったんです。ごめんなさい…」

ピノコちゃんにも、と付け足した。それきり会話は私の家に着くまで途絶えてしまった。でも先生の周りのピリピリとした、圧力のかかるような空気は消えたように感じられ、居心地は随分と良くなった。



「わざわざ送って下さってありがとうございました。これからもっと元気になって、今まで出来なかった事を沢山してみたいです」
「そうか」

車の外から開けた窓を通してする会話の調子は出会ったときとなにも変わらないものだった。私は少し、ほんの少し期待していたのだ。感動的だとか名残惜しさだとかそういう別れを。

「じゃあ…本当にありがとうございました」

頭を下げてから発車の邪魔にならないように歩道へと一歩下がる。先生がハンドルに手をかけるのが見えた。
白と黒のコントラストの髪とも、落ち着いた低い声とも、顔のつぎはぎとも、黒いマントとも、あの消毒液の匂いとも、ピノコちゃんとも、

これでお別れなのだ。


「私は」
「えっ?!」

先生が視線をこちらに向けて口を開いた。私は慌てて身体を屈め、聞き逃さないように集中し、先生を見つめた。




「君の治そうと、治りたいと一生懸命な所が好きだった」


そう言うだけ言って先生は発車し、もと来た道を去っていってしまった。呆然とする私にはあっという間だった。

先生が最後にあんなことを言って、笑ったりするから。小さいけれどあんな風に笑ったりするから。



あの時の気持ちは本当に勘違いだっただろうか?



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