小説

□欠落した物語
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【1】

 水雅(スイガ)は生まれて初めて、日本語の意味を理解することができなかった。相手は子供で、自分は大人なのに。決して、水雅の知能が足りないわけではなかった。むしろ水雅は優秀だった。学生時代から、勉学に苦労することはなかった。そして医者となった今でも、病院からは若き精鋭と謳われている。実際、水雅は目の前の少年を救っている。死の淵を彷徨っていた少年の命は、水雅の手術により現世へと引き戻されたのだった。
 手術が終わっても、少年は昏睡状態だった。3日3晩眠り続けた少年は、やっと重い瞼を持ち上げた。ベッドに横たわった少年は、虚ろな視線で天井を見上げていた。
「先生! 水雅先生!!」
 看護師の、医師を呼ぶ声が響いた。その声に反応するようにして、少年は気だるそうに首を左右に巡らせた。
 白いシーツ。白いカーテン。白い壁。
 意識を取り戻した少年は、天国のような純白の世界の中央にいた。口元は透明なマスクで覆われていて、身体には無数の管が取り付けられていた。点滴が落ちるのを見て、時が止まっていないことを確認する。
 やがて少年の周囲には、これまた白い人だかりが出来上がった。先ほどの看護師により、徴集された病院関係者。少年のすぐ傍では、担当医師である水雅が微笑み立っていた。
「気分はどうだい?」
 水雅の声は、優しく少年の耳へと運ばれた。眼鏡の奥で潤んだ瞳は、少年の目覚めによる安堵と祝福を訴えていた。
「君は事故に遭ってから、ずっと眠っていたんだよ」
 目線を泳がせる少年に対して、水雅は簡潔に状況を説明した。今は、詳しくは語らない。覚醒したばかりの少年には、少々残酷すぎるから。
「……」
 マスクの中で、薄い唇が蠢いた。僅かな時間だけならば、少年に言葉の自由を与えられる。少年の声を聞こうとして、水雅は透明なマスクに手をかけた。
 呼吸器が外されると、再び少年は口を開いた。
「……で」
 少年の声はか細くて、空間に消え入りそうなほど弱々しいものだった。
 けれどもそれは、水雅の耳にははっきりと届いた。聞き洩らすことなど出来なかった。生還したばかりの少年の言葉としては、余りにも似つかわしくなかったから。
「なんで、死なせてくれなかったんだよ」
 それは悲痛な、少年の心からの叫びだった。


 
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