こぼれだま。

□1Sのこぼれだま。
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【歌音―kanon―】

「――僕は、無という神を信仰しています。なぜなら……」

 死者のための音楽、ゼロ・レクイエム、などのキーワードを聞いたことがある者ならば、おそらくその言葉の意味を、本能的に知りたくなるだろう。
 私も同じだ。
 それは、それらの言葉に好奇心を奮い立たせる、一種の《魔力》が内包されているからだと私は思う。つまり、魔法の言葉だ。
 前者は山白朝子の小説、後者は谷口悟朗監督作品に登場するワードである。
 死=無=ゼロ、死者のための音楽=レクイエム(鎮魂歌)、という対比になっているのは偶然なのか必然なのか。明らかではないが、前者であると私は信じたい。
注)レクイエムを鎮魂歌と訳すのは厳密に言えば間違っている(レクイエムは「安息を」という意味であり、鎮魂の意味は無い)のだが、死者に向けた音楽という意味では共通するので今回は混同する。
 死者への手向けとして、ならばどんな音楽(歌)が相応しいだろう。
 私は葬送曲(レクイエム)の歌い手として名を馳せているのだが、決まって歌うのはカノンという形式の音楽である。
 いま、「カノンは一人じゃ歌えないだろ」とか「レクイエムにカノンは向かないのでは」などと思った方がいれば的確なツッコミである。そのままお笑い芸人か批評家を目指せばいいと思う。
 だが、私には歌える。
 なぜなら私は同時に異なる声(音)を出せるからである。
 その才能を活かすには、カノンしかないと思った。
 カノンはしばしば聖典とも訳されるほどキリスト教色が強いが、かえるの歌などの輪唱に限って言えば、日本人にも馴染みが深いだろう。そう、輪唱はカノンという形式のひとつなのだ。基本と言ってもいい。
 私は一人きりでカノンを奏でることができる。
 だったら歌手として表舞台に立てばいい、と人は言う。
 だが、私はそういう、華やかな舞台を好ましくは思わない。むしろ嫌悪している。できることなら一生、裏方でいたい。
 だから私は死者を送る音楽としてカノンを歌う。その仕事を、生業(なりわい)としている。
 葬送曲を歌うようになってから、死者の霊魂が視えたりするようになった、というわけではない。そういうわけではないのだが、(自己満足かも知れないが)死者を安らかな眠りに導けるようになったような気がしている。気のせいかも知れないが、遺族の方に感謝されると自分の仕事ぶりに自信が持てるのである。
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