拙作、小説

□わたしのヘイオン
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     ワン

 犬の鳴き声が遠くから風に乗って聞こえてくる。ワン、というより、ぅわぅぉお〜おーん! という響きだ。吠えたがりのあの動物は、いったい何をそんなに訴えているのだろう。悲痛な叫びだったらおもしろいのに、と思う。あんなに偉そうに、いやー助けて〜! と叫んでいるなんて、滑稽でしょう?
 わたしはそいつとは対照的な、全く吠えないおとなしい小型犬の頭をなでつつ、そんなことを考えた。目の前のこいつは、私のほほ笑みにくりっとした濡れた瞳で応えてくれる。いい子ね。そうやってひととおりなでてやってから、またね、と挨拶をしてその子とも別れた。
 小学校の帰り道だった。今のように散歩している犬と人間が多く見られる夕方だ。いつのまにかお日様が夕日と入れ替わって働いている。今日も「二人一役」お疲れさま。
 わたしは吠えない種類の小型犬を見ると、つい、なでてやりたくなる。カワイイんだもの。やかましい犬はそれだけで悪よ。ブサイクねぇ。泥棒にだけ吠えればいいのに。泥棒のにおいだけを嗅ぎとればいいのに。
 いつまでも犬の話をしているわけにもいかないので、わたしは何かおもしろいものはないかと辺りを見回した。しかしここは散歩道であるらしく、そこここに犬のものらしい糞が目に入る。うぇ……。あんなごっついの、きっと大型の犬のものなんだわ。ばっちぃわねぇ。飼い主の人間の顔が見てみたいものだわ。きっと顔も心も醜く汚れきっているのでしょうね。やっぱり見たくないわ。そんな物を見てしまったらわたしの目が腐って溶けちゃうかもしれないもの。あーあ、どこかに「醜いモノが見にくくなるメガネ」とか無いかしら。あったら札束をうずたかく積み上げてでも欲しいのだけど。
 わたしはいつもなら複数のトモダチたちと帰るのだけど、今日はあいにくと掃除当番だったの。ひとりは嫌いじゃないけれど、変質者に捕まりそうでコワイわ。こんなに可愛い小学3年生がひとりっきりで歩いているのよ? それこそ辺りがよだれの海になってもおかしくないわ。無数の変態な視線で貫かれるのよ。ぅげ、考えただけで鼻水がチビりそうだわ。コワイコワイ。
 もう二度とそんな思考はしないことにして、わたしは空を見上げた。赤く染まった空に黒い何かが浮いていた。――びちゃ。きっとカラスだ。つい今しがた数メートル横に糞が落下してきたし。……また糞よ。今日のあたしはアンラッキーガールなのかしら。テレビの占いをチェックするべきだったわね。それで運気最高だったら、訴えてやっていたところなのに。残念だわ。
 そうやってつまらない思考をしている間に、家が見えてきた。家というより屋敷というべきかもしれないそれは、周りの家々を押しのけるようにしてそこに鎮座していた。黒一色なので夕日には染まっていない。なにものにも染まらないその色が、わたしはなによりも好きで、愛していた。この家を黒く塗るように命令したのはわたしだ。おじいちゃんには黙ってやったけど、怒られなかった。
 わたしには家族がいない。この家に住む今はメイドさんと一緒に暮らしているけど、少し前までは広い家にひとりで生活していた。さらにその少し前まではそこでお父さんと二人暮しをしていたけど、お父さんは自分で死んでしまったからもうこの世にはいない。二人暮しのその前は、わたしは5人家族の一員だったらしいのだけど、当時生後まもなかったわたしには記憶がない。そして現在、その5人のうちで一般社会で生きているのは二番目のお兄ちゃん(といっても、一番目の人とは面識がないし、わたしのお兄ちゃんはひとりでいい)とわたしの2人だけだ。悲しくはない。寂しくもない。偶然でない喜劇が他の3人を排除しただけなのだから。
 本当はお兄ちゃんと二人暮らしがしたいのだけど、それは色々と問題があって困難だった。どんな問題があるのか詳しいことはわたしも知らない。お兄ちゃんがそう言っていたのでそれを鵜呑みにしているだけだ。お兄ちゃんはわたしに優しくしてくれる……というか、わたしにだけ優しくしてくれるのだけど、ときどき厳しいのだ。でも、厳しいお兄ちゃんも好きなのであまり文句はない。それくらいのガマンならわたしにもできるもん。
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