「俺がお前を部長に推薦したのは、自分が荷を負いたくないからじゃないよ」
 さあ、と風が吹いて、豊かな緑を揺らす。
 精市の声は静かに、静かに連なって。
「俺はお前になら、真田を取られても良いと思えたんだ」
 予想外の言葉にカッと顔が熱くなった。たった今、自分が気付いたばかりの感情に精市には既に気付かれていたのだという何ともいえない羞恥心が胸を覆って呼吸が苦しくなる。何も反論できないうちに、精市がこちらを見上げた。透明な、まっすぐな目をしていた。
「肩を、貸してくれないか」
 断る理由もなく、意思とは裏腹に手が出る。
 精市の。
 点滴の跡の痛々しい手の甲が目を奪った。

「俺はお前になりたかった」

 呟かれた言葉の意味を理解する前に、胸倉を掴まれた。
「知らないだろう?柳、お前は、俺達の誰より『皆』に近い。俺達のいけないところに平然として座っている。かと思えば、風のように俺達の隣にあっさりと来てみせる。その奔放さと鮮やかさに、俺達が憧れていたことを知らないだろう」
「……俺……『達』?」
 そんなはずはない。
 だって、弦一郎が、認めたのは、その、目に、映したのは。
「気付けよ」
 きつく、きつく胸元を更に締め上げられて呼吸が苦しくなる。本気で抵抗すればあっさりと彼は離れていくだろう。けれどそれが出来なかったのは、彼が、泣きそうな顔をしていたからだ。
「気付けよ。真田が見てるのは俺じゃない。『幻想の俺』を見てる真田が、真実の、本当の、ありのままの綺麗なその姿を見てるのは――」
「――蓮二!!」
 鋭い声が響いて、精市の動きが止まった。そして彼は何かを諦めたように、目を伏せた。
 襟元から手が離れる。その瞬間の、精市のすべてを諦めたような顔が忘れられない。
「幸村も……何をしているのだ」
 何も、何も知らない皇帝は自分の試合を放り出して俺達の方へ駆け寄ってきた。
 精市に座るように促してから、俺のよれよれになってしまったポロシャツを甲斐甲斐しく直してくれた。
「感心せんな」
 それきり、言うと弦一郎は腕を組んで俺と精市とを見比べた。精市は何も言いません、という顔を作ってふいと顔を逸らし、俺は尚も混乱したまま弦一郎に何も言えずにいた。
 空気が動きそうにないのを悟ったのか、弦一郎は一分弱俺達を見てから溜息を吐いた。
「――言いたくないのなら何も言わんが、幸村、蓮二、お前たちはもう少し周りからどう見られているのかを客観視した方がいいな。今日はもうあがれ」
「俺に命令するのか、真田」
 呆れた声で告げた弦一郎に、ひどく、冷たい声で精市が言葉を放つ。瞬間、弦一郎の身体は固まり言葉も消えた。
 精市は、声に似つかわぬ優しい微笑みを浮かべるとポケットから何かを取り出して弦一郎に投げつけた。
「明日からまた入院なんだ」
 その言葉に二人して身体を強張らせる。
 入院。
 精市の精神を侵していくもの。
 精市を、俺たちから奪っていくもの。
 彼は何でもないというように笑ったけれど、俺達にはただ痛々しい。
「言われなくともあがるさ、鈍感な副部長殿」
 ひらりと身を翻して、細い手を挨拶代わりに上げる。
 鬱血した手の甲の跡が白い肌に残酷に鮮やか。
 それは弦一郎の手の中に収まった果実に似ていた。
 彼の手に収まったのは毒々しいほどに鮮やかな赤い石榴の実だった。綺麗に割れて、一粒一粒が張り詰めて詰まっている。

「なあ、柳。お前は俺と真田を対照的に見ていたようだけど、違うよ。俺と真田は同種だ。孤独で、傲慢で、支配欲が強い。いつかお前は」

 細い指が、石榴を指差す。
「ああ、なる」
 弦一郎の手の中、しっかりと握られて、逃げることの叶わぬ石榴の実を。

● ● ●


「ああ、蓮二か。どうした」
 声をかけた俺に気付いた弦一郎は、見る者が見なければわからないほど微かに表情を和らげて俺に歩み寄ってきた。
「なに、顔を見かけたので一緒に帰ろうと声をかけたまでだ。予定は?」
「ない。帰るとするか」
 あれから一年経って、精市の言うとおり俺は弦一郎のものになった。弦一郎が相変わらず映す精市への眼差しに想うのはもう胸を凍結させてしまうような醜悪な感情ではなく、ただその天賦の才のゆえに孤独になってしまったもの同士が共有する『何か』を探求したいという、一種失礼な好奇心になった。
 帰り道不意に目を奪う赤い果実に、俺は僅か遠い目をする。
 精市は俺になりたかったという。
 俺も、精市になりたかったと願っていた。
 その望みの先にあるのはただ一人の愛しい人で、そして彼は俺を見てくれた。俺よりも、何もかも優れている精市ではなく、俺を。
「……蓮二?」
 すぐ隣から聞こえる声を愛しく想う。
 その感情は一年前に精市に気付かされたもののまま、それこそ石榴のように息づいている。赤く、赤く、ヒビの間から零れ落ちてしまいそうなほど弾けて、口に入れば刹那の甘酸っぱさの後に苦味が残る。
 俺は誰もいないのを見計らって弦一郎の手を取った。
 手袋やマフラーをつけることを好まない彼の手は、もうすぐ訪れる冬の到来を告げる風にすっかり冷え切っていた。
「冷たいな」
 言えば、照れているのか前を向いたまま強く握り返してくる。
「お前が温かいだけだ」
 その横顔を愛しく想う。
 想いを噛み締める。
 噛み締めて、そうして俺は、孤独のまま、静かに微笑んであの果実を投げつけた彼の手も、きっと冷たいのだろうと思った。
 そうして願った。
 誰か、俺がこうして弦一郎の手を温めているように、精市の手を温めてくれる誰かが一日も早く現れれてくれることを。
 彼の手の中にも、たった一つ、譲れぬ赤い果実の収まることを。


【終】







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