『赤い実熟す頃』
(真柳+幸村)






 前方から歩いてくる愛しい人の姿が見える。
 小さく拳を握って、無作法にならない程度に大股で歩く姿はその二つ名に相応しく威厳がある。彼が歩けば人の波が割れ、自然と道は開かれた。それはまるで、モーゼの十戒のようで俺はその様を見るのが好きだった。
 一年の頃から既に名を響かせていた俺たちは、距離を置かれることに慣れていたし送られる沢山の眼差しの中に羨望や憧れや、そういったものだけが含まれるものではないことも当然知っていた。俺は元々人にどう見られようと気にしないタイプだったし、精市は人間には計り知れないほどの(というか人間とは思えないほどの)強靭な精神力の持ち主だったので、むしろ注目されることを楽しんでいたような節があった。そして俺の愛すべき人は、その高潔さを身に纏い、鮮やかなほどにすべてをはねのけてしまうのだった。
 尊敬も、畏怖も、嫉妬も、憧憬も、何もかも。
 精市がすべてを包み込み飽和させる《柔》の象徴だとしたら、弦一郎はすべてを振り払う孤高にして鋼鉄の《剛》の象徴だった。
 弦一郎は、弦一郎以外を必要としていなかった。
 そこに俺が入り込む余地があったのは本当に奇跡だと、思っている。
「弦一郎」
 そうして、この学校でただ一人彼を下の名で呼べる幸福を俺は深く噛み締めるのだ。

● ● ●


 精市が部長に任命されたのは全国大会も終わり、秋の新人戦へ向けて部内が慌しくなった頃だった。精市はひどく渋った。
「無理です。俺は、人にものを教えることが出来ない。部長なら、柳が向いていると思います」
 きっぱりとそう断言されて、一回目の会議は終わった。
 立海は実力主義、いくら三強の一人と崇めるように称えられていたとしても、俺は精市はおろか弦一郎にさえ及ばない実力の持ち主でしかなく、部長の器ではなかった、ので、二回目の会議は俺の断りで始まった。先輩達は頭を抱え、頑なな精市をどうにか懐柔しようとあの手この手を使ったがそれも無意味に終わった。弦一郎は、ただの意地っ張りな精市の性格を知っているせいか幾分呆れた顔つきで精市を見ていた。俺は、そんな弦一郎を見ていた。
 精市は部長になるだろう。彼のテニスはそれほど圧倒的で、鮮烈で、強すぎた。データを取りながら、これほど圧倒的な『強さ』というものを持ち得る人間が存在するそのことに毎回感嘆の溜息を吐くのだ。
 三度目の会議では、精神的に疲労困憊した先輩達がさすがに哀れになったのかそれまで無言だった弦一郎が、己が副部長をやる、と言い出したことで怒涛の展開を迎えた。副部長をやる条件として、精市が部長であること、を挙げた途端、それまで強情だった精市はけろりと「じゃあやります」とだけ言って、先輩達に安堵の涙を流させた。あれは見ものだった。
 精市は今でもその時のことを思い出しては面白げに語ったりするが、先輩達としては笑えない思い出に違いない。
「なぜ、部長を拒んだ?」
 一回目の会議の後にそう尋ねたなら、彼は大きく伸びをしながら応えたものだ。
「俺には、『出来ない』人が何故出来ないのか、わからない。だから、教えることも、心情を察することも出来ない――言うだろう、柳。『優等生は教師に向かない』」
 あっさりと己の強さを誇示できるのも彼の特権だった。彼が天才的に強いことは誰もが、そう、精市自身もが認めていたことだし、事実だった。彼の理論を肯定するなら、確かにデータを貯蓄することとそれに伴う努力をすることで現在の地位へ登りつめた俺が部長にふさわしいのかもしれなかった。
 けれど、強さが。
 何よりも強さがヒエラルキーの頂点に立つ立海においては、精市が部長として立つことは必至のこと。
「真田も、強い。だけど真田は『長』ではないと、思うから」
 だから俺を部長に推したのだと、言って彼は小さく欠伸をした。
 精市の解釈は正しい。弦一郎の強さは孤独の上に成り立っていた。誰かの力を借りたり、誰かに力を貸したりすれば弦一郎の野生的な強さは薄れてしまうだろうことは容易に知れた。
「だからといって、最終的には折れるくせに」
 呆れて呟いた俺に、精市は微かに微笑んだだけだった。
 散々先輩達の精神力を削った果てに結局精市は部長の座に落ち着いて、その、一ヵ月後に彼はコートから消えた。

 精市が倒れたことで一番のショックを受けたのは弦一郎だった。
 顔には出さなかったもののプレーの荒れ様を見ればそれは一目瞭然で、俺は酷だと分かりながらも何度も弦一郎を叱咤した。弦一郎が、ようやく本来のプレースタイルを取り戻した頃、一時退院した精市はコートに戻ってきた。あの傲慢なまでの強さと鮮やかな華やぎを失って。
 そのことに二度目のショックを受けた弦一郎を見て、俺は、人の儚さを知った。
 誇り高い弦一郎が頂点を譲ったのはそれが精市だったからだ。
 誰よりも強く、ただ強く、存在する、精市に対してそれはいわば信仰と呼んでも差し支えないほどの信頼であり、そんな彼の補佐を出来ることが弦一郎の誇りだったのだろう。触れればひびの入ってしまいそうな精市と弦一郎を見て、俺はようやくショックを受けた。
 俺はのけ者だった。
 弦一郎がどれほど精市を信奉していたか知らなかったし、精市がどれだけの信頼を弦一郎に向けているのか知らなかった。
 ただの我儘でなく、副部長が弦一郎だったから、部長の任を受けたのだと。
「……こんな姿を、一番見られたくなかったな」
 ぽつり、呟きベンチに座って精市が追うのは弦一郎の姿だった。
 俺はただただ、その言葉と眼差しの意味を手繰るのに精一杯で、何も言えずに。
 精市がうずくまるのを、見ていた。
 そこは二人だけの世界だった。三人で並んで歩いていたはずの道はいつの間にか二人にしか分からないものになっていて、それを知った瞬間、俺の胸に去来したもの、は。

 嫉妬、だった。

 弦一郎を一番理解しているのは自分だと思っていた。
 そして精市を一番理解しているのも、自分だと。
 その自惚れは共に歩んだ時間のもたらしたもので、だとしたら、理解しきれていなかった二人の間にあるその信頼の域を超えそうになっている感情は、俺をのけ者にして育っていたのだ。
 そんなことに今更ながらようやく気付かされて俺は、ショックを受けたのだ。
 精市は誰の手も借りずに己の道を歩んで行くのだろうと思っていた。
 そして弦一郎もまた、孤独な強さの中に身を投じて、ゆくのだろうと。
 思っていたのに、お互いの視界にはお互いがしっかりと映って、お互いを補い合っていたのだ。
 誰に対する嫉妬なのかは分かっていた。
 孤高の皇帝の眼差しにただ一人、映り得た、今は力なくベンチに寄りかかるこの線の細い少年に対して、だ。
 弦一郎が精市を信奉していたように、俺もまた弦一郎を信奉していたのだ。
 俺にはない強さを持つ弦一郎を。
 自分でも、知らぬ間に。
 ――愛して。
「柳」
 俺の思考を打ち切るように、精市が柔らかな声を出した。


続。




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