マイナー武将列伝

□陳珪 字・漢瑜(生没年不明)
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シナリオ1・陶謙陣営・軍師
シナリオ2・曹操陣営・参謀
攻撃13 防御30 機動13
魅力76 知力70 政治82
 
 
さてさて元丸さん、見てますか?お待たせしました。陳珪ですよ!
 
陳珪は徐州・広陵の人…だと思いますいや、陳家の地盤がその辺りですから。 
陳家は三公の一つ、太尉まで輩出した後漢の名族である。そんな徐州の有力者である陳家の当主として、徐州牧・陶謙に仕え、沛国の相となる。
陶謙の死後は徐州を相続した劉備、次いで劉備から徐州を奪った呂布にも任用され、特に呂布からは絶大な信頼を得た。
 
その頃揚州に勢力を拡大し独立勢力を築きつつあった袁術は、徐州をも版図に加えようと、お互いに名門の子弟として、少年時代から親交のあった陳珪に配下になるように求める文書を出した。
これに対し陳珪は『時勢は皇帝を推戴した曹操によりまとまり始めており、漢朝に仕え続ける』と答えて拒否した。
また、袁術が呂布に縁談を持ちかけた際には、この二人が連携する事によって後漢末の騒乱がさらに深まる事を恐れ、呂布に『巧い事言って娘を人質に取られますよ?』『むしろアイツってば、勝手に皇帝とか名乗って逆賊じゃ〜ん!』等と言い破談させた。
怒った袁術が張勲を大将として徐州に大軍を差し向けると、呂布は陳珪に『お前の所為で袁術がキレて攻めてきた!』と詰るが、陳珪は『袁術軍は大軍だけど、韓暹・楊奉なんて即席の将軍ですぜ』と言い、巧みな離間の計で袁術軍を混乱させて破った。
その一方で息子の陳登を使者として許都に遣わし、呂布に左将軍の官位を与えて機嫌を取りつつ、裏では曹操に呂布を討つようそそのかす。この時陳登は、曹操より広陵太守に任命され、徐州攻略の際の内通を約束する。
呂布滅亡後は息子の陳登に任せて隠居したのか、その後は表舞台に登場しない。
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