マイナー武将列伝

□廬植 字・子幹(?〜192)
1ページ/2ページ

シナリオ1・董卓陣営・将軍
攻撃66 防御70 機動60
魅力81 知力83 政治85
 
 
本日のお題は廬植です。
ご存じの方も多いと思いますが、劉備や公孫サンの学問の師です。
しかしそれ以外の事はあまり知られていませんので取り上げてみます。
 
廬植は幼くして鄭玄・馬融に師事して儒学を学び、学びおえた後は郷里で講学した。古今に通じた博学者で、節義もあり人望も厚かった。
そんな評判の学者先生なので霊帝に召しだされて博士となる。
九江で南夷が反乱を起こすと、鎮圧の為九江太守に任命される。
その後、侍中、尚書と出世街道に乗りながら、この間、東観で蔡ヨウや楊彪等とともに五経の校訂や漢記の編纂にも携わる。
劉備や公孫サンに学問を教えていたのもこの頃らしい。 
184年、黄巾の乱が起きると北中郎将に任命され、反乱の首領である張角の討伐に向かった。
数をたのむ黄巾軍に対し策を以てあたり、広宗に追い詰めるが、宦官の左豊に賄賂を要求され断った為、『あのぉ、廬植ってばぁ、遊んでばっかでぇ、ぜぇんぜん戦わないって感じぃ』と報告され、官職剥奪のうえ処罰されてしまう。のちに許されて尚書に返り咲くけどね。
189年、董卓が実権を掌握し、皇帝を廃して陳留王を立てようとすると、これに反対する。キレた董卓は廬植を処刑しようとするが、人望の厚い廬植は周囲の取り成しで助命される。
その後、董卓の専横に嫌気が差し、老齢を理由に引退し、軍都山に隠遁して192年に病死した。
曹操は彼が死んだと聞き、ひどく悲しみ彼の子を官職につけている。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ