マイナー武将列伝

□董和 字・幼宰(生没年不明)
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シナリオ2・劉璋陣営・軍師
シナリオ3・劉璋陣営・軍師
攻撃40 防御37 機動27
魅力73 知力56 政治83
 
 
またしても史実外したので、次は誰にしようかなと思っていたら、とある方が董和をやってらっしゃるので、これは紹介しておかねばと。数少ない読者は大切にせねば。
 
董和は荊州・南郡の枝江の人なのだけど、祖先は元々巴郡・江州との事で、益州にも縁があるようです。
戦乱を避けて一族を引き連れ益州に移住してきた時に、益州牧・劉璋の目にとまり、江原の県長、成都県令を歴任。
当時の益州は贅沢に過ごすのが美徳とされ、一部のセレブな人たちは、冠婚葬祭に一財産を注ぎ込んで派手さを競ったりした。
名古屋の嫁入りもそんな感じですよね?関係ないけど。
まあ、平和ボケして法規も緩みっぱなしだったりで、董和は自ら粗衣粗食に甘んじ、民衆にも分不相応な振る舞いを禁止した。
一般の民衆は彼を慕い、彼の統治した地域はみな治まったという。
贅沢を禁止されて面白くない成都ヒルズ族は、劉璋に根回して彼を左遷させようとするが、数千にのぼる留任嘆願書が出され、劉璋は二年の留任を認める。
劉璋の信任も厚く、後に益州太守に栄転。異民族も公平に扱い、誠意を貫いた政治を行なう事で信頼を獲得。南方の人は彼を尊敬し、進んで協力した。
所謂南蛮というのは、劉備時代になってから急に背いたように言われているが、実際は常に時の政権に反目しており、一旦は討伐に成功したりもするが、後漢から三国時代にかけて、まともに統治に成功したのは馬忠とこの董和くらいのものだったようです。後任の正昂という人なんか殺されちゃったし。スゴいぞ僕らの董和ヾ(´∇`)ノ゙
 
さて、劉備の名前がチラッと出てきましたが、董和が名太守として活躍中の頃ですね。劉備が蜀を乗っ取りに来るのは。
劉璋が劉備を援軍として迎え入れようとしたときはこれに強硬に反対し、劉備軍が成都に迫ったときは地の利を説き徹底交戦を主張した。
劉備が蜀を平定すると、旧主・劉璋への忠誠を見込まれ掌軍中郎将として召しだされた。
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