マイナー武将列伝

□朱然 字・義封(182〜248)
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シナリオ2・孫策陣営・副将
シナリオ3・孫権陣営・副将
シナリオ4・孫権陣営・将軍
攻撃87 防御81 機動75
魅力74 知力70 政治56
 
 
またまた間が開いてしまったけど、今回は今シナのご主君である朱然をば…
 
朱然もかなりマイナー臭の漂う武将なんですが、横山光輝の『三国志』でも、何か黒目の無い武将が一瞬だけ出てたな、とかそんな扱いですけどね
 
さて、そんな朱然は揚州・丹陽郡の人。
まずは一般的な朱然知識について訂正すると、朱然は朱治の息子ではなく、正確には朱治の姉の子、つまり甥っ子。本名は施然。
また『呉の四姓』といわれる名門、顧・陸・朱・張のうちの朱家とは別族なので、陸遜のような名門のお坊っちゃんではない。宿将・朱治の養子だから、呉の中では恵まれた境遇ではあるけど
そしてここが最も重要!
朱然は決してその他大勢の中間管理職ではない。
 
朱然は若い頃から孫策に従い、その才能を愛された。その経緯で、孫策の仲介で13歳のとき朱治の養子となった。
孫権とは同年齢で、机を並べて勉学に励んだいわゆるご学友というヤツで、王侯貴族の学友というのは、大体において将来の出世が約束されていますまあ、役得ばかりではないのですが、朱然に関してはその手のエピソードが見当たらないので省略。
孫権はかなり変人っぽいので、学友も苦労が絶えないのではないかと想像してみたりしますが…。
 
ともあれ、孫権とは厚い信頼関係で結ばれ、孫策死後、19歳で余姚県の長、間もなく山陰県の令、臨川郡の太守と昇進兵士2000を率いて山越討伐にあたり、一ヵ月程で平定した。
 
212年に曹操が濡須に侵攻してくると、この防衛に当たり、功績で偏将軍に任じられた。
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