文心[ブレスト・アナザー]
□ブレスト・アナザー
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体の底から沸き上がるような何かを押し込めるように、薫はゆっくりと、ゆっくりと、誰もいない廊下を歩いていた。
皮膚を突き破って出てきそうなそれは、一旦外に出れば止めどなく流れ出てきそうだった。
下駄箱に上靴をしまい、外靴を取り出す。
ただそれだけのことなのに、ひどくおぼつかない。
靴を取り落としてしまい、それを拾おうと屈んだものの、薫はそのままその場にしゃがみ込んでしまった。
(──怖かった。)
ただただ怖かった。
目の前で起こっていた現実。
触らなければ、祟られはしなかったのに。
火の粉だってかかりはしなかったのに。
関わらなければ、少なくとも自分の世界だけは安泰だったのに。
(なのに、何であの時……)
そんな後悔にも似た思いが、ぐるぐると薫の頭の中を駆け巡る。
(──自分は何も見なかった、聞かなかった。このまま帰って、明日になればまたいつもと同じように漫画やゲ―ムの話をして、またいつものようにバスに乗って家に帰るんだ。)
簡単なことだろう、と言い聞かせるような自分がいるかと思えば、
(──お前にそれができるのか。)
と、背中から氷を差し入れるように問う自分がいるといった具合だった。
そうした葛藤も、薫の一挙一動を緩慢なものにしている要因だった。
先程の高松たちのことだけではなく、昨日の石岡のことまで思い出して、嫌な予感が脳裏をかすめる。
(──……ダメだ。このままにしておいたら、何か取り返しのつかないことになりそうな気がする。)
そう思って、薫は来た道を引き返し、屋上に続く階段を一気に駆け上がった。
息を切らせて、ようやくたどり着いた屋上のドア越しからは、何の音もしない。
「上行くか」と言った高松の言葉に、それが屋上のことだと思っていた薫は急に心細くなる。
薫は意を決して、おそるおそるドアを開けた。
隙間から漏れてくる日の光が眩しく、目が物を見ることを拒む。
ドアを開けたそこに、誰かが倒れている。
「石岡っ!?」
思わず駆け寄ったそこに横たわっていたのは、──高松だった。
日の光が当たる方向に出来るはずの影とは違う影が、そこにできていた。
よく見るとそれは影ではなく、血溜まりだった。
(──何があったんだ……?)
薫が周囲を見回すと、あとの仲間の二人も同じように倒れていた。
誰も動かない。
その空間で動いていたのは、──薫一人だけだった。
(──石岡は……?)
辺りを見回しても、どこにも姿が見えない。
不意に、じり、と靴とコンクリ―トが摩擦する微かな音が聞こえた。
音のした方を振り返ると、そこは薫が昇ってきた階段のある方角だった。
ふと、屋上のドアの上部──屋上に繋がる階段の屋根の部分にあたる一角で、何かが動くのが見えた。
その場から下がって見ると、探していた人物がそこに立っていた。
「石岡……っ!!」
呼ばれて振り返ったその顔は、日の影となって薫の居る場所からはよく見えなかった。
急いで、壁の脇に設置されている細い鉄パイプの梯子を昇る。
石岡が立っているその場所は、屋上の四方を張り巡らせたフェンスの縁と同じくらいの高さだった。
階段を上がり見た石岡の手には、ナイフが握られていた。