文心[ブレスト・アナザー]
□ブレスト・アナザー
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【薫の決意】
どれほどの時間、そこにうずくまっていただろう。
涙はとうに乾いていたが、眼球は未だ冷めない熱を持っていた。
太陽は沈み、街灯や家々の灯りが付き始めていた。
そのひとつひとつは、とても綺麗だと薫は思う。けれど、そんな綺麗な明るさの下にも、悩みや人には言えない何かとても大きなものを抱えている人が居るかもしれない。
いや、きっと居るのだろう。 ──石岡のように。
そう思うと、乾いたはずの涙が再び頬を伝った。
石岡を少しでも分かったつもりでいた。
でも、それは彼のほんの一部、──表面でしかなくて、石岡の抱えているものの大きさも深さも自分には全然分かっていなかったのだということを思い知らされた。
雑踏の喧騒に混ざって、救急車の音が聞こえた気がする。もうすぐ、ここにも人が来るだろう。
きっと、ここにいる薫を見つけて聞くだろう。 ──「一体、何があったのか」と。
来た人に、このありさまを何と伝えたらいいだろう。
多分、きっと自分はこう応えるだろう。 ──「分からない」と。
分かる人が居たら、教えてほしい。
石岡が抱えていたものが、何だったのか。
(──生まれる前から捻じ曲がってたものって、何だ?)
「案外、家で何かあんのかもな」と、森下が言っていたことを薫はふと思い出す。
捻じ曲がってたのは、家族関係か。それとも、この世界か──
それは石岡にしか分からない。
「おぬしは、自分の運命を変えたいのか?」
ひざを抱えていた薫の上に、突然、声が降ってきた。
薫が見上げた先には、フ―ドをかぶった人影が闇の中にたたずんでいた。
薫は、夢を見ているのだと思った。
「運命を変えたいのかと聞いておる」
老人は焦れたように、やや口調を強めて薫に問う。
「ウンメイ……?」
「うむ。この扉は、運命を変えたい者の前に現れる扉じゃ」
厳かに、老人は言葉を紡いだ。
「運命を変えたい者の前に……?」
薫は、老人の言葉を反芻する。
見れば、老人が立っている場所は長い階段の上で、その先には扉があった。
「そうじゃ。おぬしは運命を変えたい、あるいは失ったものを取り戻したいと願ったはずじゃ」
(──運命を変える? 失ったものを取り戻す……?)
先程、薫の目の前で起こった出来事が思い出された。
──『お前には分からないよ』
──『全部、生まれる前から捻曲がってて……──もう取り返しがつかない』
──『じゃあな、──三谷』
それは色を失うことなく、鮮明に薫の中に蘇ってくる。
「僕が変えたいのは……僕の運命じゃなくて、僕の友達の運命なんだ……」
「友達の運命を変えたい、か……本当にそうじゃろうか?」
老人は、謎かけをするような調子で問う。
「え……?」
「いや、どちらにしろ、運命を変えられるか否かはおぬし次第じゃ。ここから進むか、引き返すかもおぬし次第じゃ。 ──さて、おぬしはどうするのじゃ?」
老人の問いかけに、薫はすでに闇と同化したフェンスの向こう側へと目を向けた。
これが、夢なら夢で構わない。
これが、現実だったなら願ってもない。
(──変えられるなら、変えてやる……!! だから──)
「──行くよ!!」
薫は、顔を上げて老人を見据えた。
「それで石岡の運命が変えられるなら、僕は行くよ!! アイツの運命を変えてやりたいんだ!!」
薫の言葉に、老人はわずかに目元を緩ませた。
「ならば、進むがよい。運命の塔までたどり着いて、女神さまにその願いを叶えてもらうのじゃ」
「運命の塔……そこへ行けばいいんですね?」
薫の問いに、老人はうなずいた。
「そうじゃ。どれ、おぬしに“旅人の証”を授けよう」
老人は薫にペンダントをよこした。差し出されたそれを、薫は受け取る。
「これで、幻界を自由に旅することができる」
「幻界……」
「さぁ旅人よ、この扉を通って運命の塔を目指し旅をするのじゃ」
老人は階段の端に身を寄せて、薫に道を開けた。
薫は老人に促されて、白く光る扉へと続く階段を一段一段登っていった。