文心[ブレスト・アナザー]
□ブレスト・アナザー
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【腕輪職人】
翌日、トローンはひとり腕輪職人がいる工房に向かった。
工房に入ってすぐ、むっとする臭いが鼻をついてトローンは顔をしかめた。キイキイという甲高い鳴き声もそれに拍車をかける。
臭いの元は部屋の一辺を占拠している大ダルらしいことが分かったが、木蓋の上に重石がしてあって中に何が入っているのかまでは分からない。
その嗅ぎ慣れない臭いに満たされた暗がりの中で、職人は布のようなものに向かって一心に手を動かしていた。
トローンが来たことに気づくと、職人は手を休めて顔を上げた。
男はアンカ族だったが、筋肉隆々で毛むくじゃらな腕と顔の半分を覆う髭とで、一見すると獣人族と見まがう姿をしていた。
髭や髪にところどころ白が混じっていて、それほど若くはないことが分かる。
しかし、そんなに小さくはない椅子から体がはみ出すほどの体格があった。
「見ない顔だね。新米かい?」
「いや、代行で来ただけだ」
トローンは腕輪の再発行手続きの書類を男に手渡した。
「ふうん、そうかい。それでもこれを見るのは初めてだね」
「まあな。しかし……さっきからうるさいが、ありゃ何だ? ジイさんの趣味か?」
棚には大小様々な瓶が並んでいて、その前には小さな檻がいくつか積まれていた。
その中を鳴き喚きながら、忙しなく動き回っている生き物がいた。手の平よりも小さく、モルという生き物に似ているが毛色が違う。
「あれは素材だ。育成や観賞なんていう趣味は俺にはない」
「素材……?」
「あんたもつけている腕輪の素材だよ」
言われて、トローンはハイランダーの腕輪を見る。
「これか? 冗談だろう? その大きさじゃあ、せいぜい小銭入れが精一杯ってところだ」
「まあ、そう思うのも無理はない。腕輪ひとつに、そいつ一匹。小さいが腕輪の大きさになるまでこうやって何度も皮をなめすんだ」
男は止めていた手を動かして、皮をなめす真似をしてみせた。
作業台に置かれた皮は、確かに腕輪ほどの大きさになっている。
「着色した革だと長年使っているうちに色褪せてしまうんだが、これだとそんな心配はない。天然素材で赤い革なんてそうそうないし、そういった点ではこいつが一番適しているんだ。赤いファイヤドラゴンの伝説にあやかって目をつけられたこいつらにとっちゃあ、とんだ災難だろうがね」
非アンカ族に対する差別を正すべく声高に叫んでいる一方で、ヒトに淘汰されていく生き物たち。
言葉が通じていれば自分の不遇を訴えるだろう。
ハイランダーというヒトを守る存在であっても、ある点では何かを犠牲にしている。
その矛盾に気づいて、トローンは言葉に詰まった。
「なんだ、押し黙って……。驚いたのかい?」
トローンの様子を見て、男は言った。
「まあ、無理もないな。いつも来るブランチ長は最初の頃泣いてたねえ。最近は泣かなくなったが。その前のブランチ長は『ヒトを守るのに、それくらいの覚悟は持ち合わせている』なんて気丈にも言ってたもんだがね」
「へえ……。そりゃあ、アイツらしい言い分だな」
落とした食器の破片を全部きれいに片付けたと思っていたのに、数日後にまた見つけたときのような感覚。
その破片を拾って、誤って指に刺してしまったときの目が覚めるような感覚に囚われて、トローンは苦笑する。
「これが頼まれていた品だ」
男から小箱を受け取って、書類に記名する。そして資格ある者に腕輪を渡せば任務は完了する。
それはこれまで何度もやり取りされてきたけとで、これからもずっと継続していくことは変わらないだろう。
例え、この場で生き物を一時の感情に任せて檻の中から逃がしても、また別の生き物が運ばれてくる。
これはリリスのブランチ長を捕らえても、何も変わらないことと同じだとトローンは思った。
慣習を変える力も権限も、今の副長という立場のトローンにはない。
変えるにはここで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
「こんな環境で仕事に集中できるのか?」
トローンの問いに、男は檻のほうを見て困ったように笑う。
「昔は耳栓をしていたこともあるが、こうも鳴かれちゃ耳栓も意味がないからな」
もう慣れっこだ、と男は言った。
「さいごくらいは俺がコイツらの愚痴を聞いてやらんとな」
「そうか……そうしてやってくれ」
ブランチに戻って、トローンはさっそくカオルに腕輪を渡しに行った。
「ボウズ、もうなくすんじゃないぞ。これからは何があっても死守しろ。これはハイランダーの証なんだからな」
礼を言うカオルに念を押すように、トローンは語った。
そんなトローンから何かを感じ取ってか、カオルは「はい」と神妙にうなずいた。