文心[ブレスト・アナザー]
□ブレスト・アナザー
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【渦中の人】
朝、薫が学校に着いたとき、教室内は騒然としていた。
入口近くにいた女子たちが「あり得ないよねー」、「ね〜、馬鹿だよね」などと囁き合っている。顔を寄せ合い、声をひそめて話している生徒もいる。
薫はその様子を不思議に思いながら、自分の席へ向かった。
「はよ〜、薫」
「おはよう。何かあったの?」
机に鞄を置きながら、薫は前の席の森下に訊いた。
森下は「特大ニュ―スだ」とにやにやしている。
「アイツ、また問題起こしたらしいな」
「アイツって?」
「問題起こすヤツって言ったら石岡のヤツに決まってんだろ。アイツ、今度は学校のガラス割ったらしいぜ」
森下の言う“また”というのは、石岡が今までも数々の問題を起こしてきた事実による。
石岡に関しては、色々な噂があって誰も本人に近付こうとはしなかった。
触らぬ神に祟り無しという言葉のごとく、関わらなければ要らぬ火の粉はかからないということなのだろう。
教室の騒がしさの原因が分かって薫は納得した。
「へぇ……それで朝からこの騒ぎなんだ。何でまたガラスなんか割ったんだろ?」
「何でって……知らないけどさ、アイツって何か結構荒れてんじゃん? 何が気に食わないんだか、辺り構わずって感じでさ。 ……ああいうヤツって、案外、家で何かあんじゃねぇの」
森下はそう締めくくって、「それよりも、今週のチャンプみたか? すごいことになってるぜ」と、自分の目の前にある関心事に話題を移した。
薫も森下の話題に乗る。
他の生徒たちも、すでに昨夜のテレビ番組の笑い話に花を咲かせている。
朝の騒ぎは、そうしたいつもと変わらない日常の中に紛れ込んでしまっていた。
薫の帰りの交通手段はバスだった。
小学校までは徒歩だったが、中学校までの道のりは遠く、バス通学となった。
学校がある日は、薫の住むマンション前の停留所から自宅と学校間を乗り降りしていた。
いつも降りる停留所よりひとつ前のバス停で降りて、よく行くコンビニへと向かった。
陳列棚の雑誌を一通り読み終え、切らしていたシャーペンの芯を買って店を出た。そしてそのままマンションへ続く道を歩く。
日は傾きかけていて、辺りにはひんやりとした空気が漂っていた。
道の途中に、薫が小さい頃によく遊んだ公園があった。
休日には親子連れを見かけるが、夕方という時間帯では人影はない。公園に面した道路も、帰途を急ぐように車が走り抜けていくくらいで、人通りは少なかった。
ふと、視界の端で何かが動いたように見えた。
猫かと思ったが、よく見ると背の低い茂みの影に膝から下の足が見えている。
(──人が倒れてる。)
そう思って、薫はその場へと足早に近付いていった。
見ている限りでは、その足はピクリとも動かなかった。
動かず投げ出されたその足に、絶望的な予感が脳裏をよぎる。
と同時に自然と歩みも遅くなる。しかし──
「……ってぇ」
うめき声とともに、足が僅かに動いた。
(──生きてる。)
「あの……大丈夫……ですか?」
薫は駆け寄って声をかけた。
かけた矢先。そこにいた人物を見るなり、薫は一瞬言葉に詰まる。
そこにいたのは、朝に騒ぎの発端となっていた人物──石岡だった。
「い、石岡……!?」
「……ンだよ? 来ンじゃねぇよ!!」
驚きと混乱で固まったままの薫を睨み付けて、石岡は噛み付かんばかりの怒声を浴びせた。その様子に薫はたじろぐ。しかし、それ以上にたじろいだのは、血や土埃にまみれた石岡の姿だった。
「あ、怪我してる……! 何かあったの?」
薫はおそるおそるその場に腰を落とした。
よく見れば、石岡の制服のボタンは外れてなくなっているか取れかけているかのどちらかで、元の位置に収まっているボタンはほとんどないと言っていいほどだった。
「お前には関係ねぇだろ!?」
石岡が声を荒げる。
「か、関係ないけどっ……血が出てるし、手当てしなきゃ!」
手を貸そうとしたが、「うるさい! いいから放っとけ!」と薫の手を振り払って、石岡はひとりで立ち上がろうとする。
しかし、何度か足を踏ん張ってはみるものの、傷の痛みでなかなか立ち上がれないようだった。
「このまま放っとけないよ!! 僕んち、すぐ近くだから、行こう! 歩ける?」
薫は肩を貸して、石岡を助け起こした。
石岡は一人では立ち上がれないことを悟ったのか、悪態を吐きつつも薫の肩につかまって歩きだした。