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□妖怪もの
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少年は走っていた。
ただひたすら、わき目も振らず一心不乱に。

月は無く、濃い闇が辺りに漂っている。夜道を照らすものはなく、足元が覚束無い。
足の裏が痛い。節々が悲鳴を上げている。
聞こえるのは己の獣のような呼吸と、草木を掻き分ける音だけで、風の音さえしない。

まるで世界に自分一人しか存在していないようだ。
眩暈がする。頭がガンガンと痛み、視界が霞む。息が出来ない。

それでも、今止まれば、捕まってしまう。

それだけはどうしても避けたい。
ゼェゼェと荒い息を繰り返しながら、少年は最早気力だけで陰鬱とした森の闇を割く様に疾走していた。

逃れたかった。
そうすれば、楽になれると信じていたのだ。



転がるように拓けた所へ出たのはそれから間も無くであった。
一瞬暗闇に見た光が、追っ手ではないかとゾッとしたが、なんという事も無い。
麓の村々の信仰を集めている小さなお稲荷様の拝殿にある灯篭の光がちりちりと揺れていたのである。
麗々しい赤い鳥居が何重も連なり、社を守る左右の狐の石像が灯篭の火に照らされ佇む姿は、昼間見るのと違い、どこかしら不気味だ。

ハァハァと肩で息をしながら、少年は境内に立ちすくむ。
此処がお稲荷様であるのならば、さほど遠くには来ていない。反対側の石段を使えば、麓の村から来ることも容易い。
くそ、と悪態をつくと、途端に視界が歪んだ。

なぜいつもおれなのだろう。

じわりと薄暗い気持ちが小さな胸に溢れ出す。
先程まで狂おしいほどの焦燥感に襲われていた少年の心中が、何かに塗りつぶされてゆく。
逃げなければ、逃げなければと口癖のように繰り返していた言葉は、静かな境内の中で「なぜ」という単語に変わっていた。

ただ父と母と笑ってすごす事が出来れば他に何も望むことは無いのに。
なぜ、それが許されないのだろう。
なぜ、なぜ、という言葉が狂気を帯びるように静かな境内に響く。

最早大きな瞳から洪水のように溢れ出したしずくが乾いた地面にぼたぼたと落ちて、少年は放心したように膝を折って座り込んでしまった。

どうすれば、と地面に吸い込まれる黒い影をじ、と見詰めながら少年は煌煌と灯り続ける明かりに誘われるように顔を上げた。
瞬間、左右の狐がニヤリと笑ったような気がして、背中に嫌な汗が流れた。
本能的に後ずさろうと身構えた、その瞬間であった。

「…!!」

少年の耳に、人の声が入った。

途端に少年はサッと青褪めてぐるりと体を回す。
ドッドッド、と心臓が鳴り始める。

まずい。

そう思うのと同時に、程近い暗闇の中にゆらゆらと揺れる明かりを、少年は確かに見た。
叫ぶような声が直ぐ近くまで迫ってきている。
見付る、と思うが早いか、少年は這うようにして鳥居を潜り抜けると社の戸口をこじ開け、中へと転がり込んだ。
ゼェゼェと肩で息をしながら、狭い社殿の中で膝を抱えた。

みつかるな、みつかるな、と祈るような気持ちでガタガタと震える己のからだをしっかりと抱き締める。
自分を探す人々の声が段々と近付いて来る。
幾人いるのだろう。足音だけでは何人居るのかも分からない。

心臓は今壊れたようにドクドクと鳴り、今に爆発をしてしまうのでは無いかと錯覚をおこすほどだった。

神社の周囲を、取り囲むように、四方から足音が近付いて来る。
絶望にも近い感情がぞわぞわと這い上がってくる。

来るな、来るな!!

今にも叫びだしそうな衝動に駆られた少年が、殊更きつく、己の身体を抱き締めた。
その時だった。



少年の脳内に、何か、か細い声が聞こえたのである。
俯いていた少年はハッと顔を上げると、狭く、薄暗い社殿の中を恐々としながらぐるりと見回した。
そして、自分が蹲っているすぐ近く、神座の直ぐ横に古びた木箱を見つけたのである。
それは何の変哲も無い木箱であったが、少年が、まるで誘われるようにその木箱に手を伸ばし、箱を開けると、其処には何かが白い布で巻かれて置いてあった。
形からして、面(おもて)であるとみえる。
震える手で、それを手に取り、少年は自分でも驚くような行動に出た。



「おれを、呼んだかい」



その面が、自分を呼んだのだと少年は漠然と感じたのだ。
窮地に追い込まれた少年は、まるで自分は頭がおかしくなってしまったのではないかと、頭の片隅でぞっとした。
白い布地に包まれた面に話しかけるなど、狂気の沙汰だ。

それでも何か縋るものが欲しくて、少年は震える腕にその面を抱えた。

ギシ。

背後に聞こえた音に、全身の血が凍りつくような感覚に襲われる。
誰かが、社殿の階段を昇ってきている。

ギシ、ギシ、キィ、と木の軋む音がまるで耳元で鳴っているように聞こえ、少年は、嫌だ、と呟いた。
その声を聞き取ったのか、階段を昇ってきた音が止んだ。

少年は最早、逃れることも念頭になく、只、嫌だ、嫌だ、と狂ったように繰り返し、瞳からは滂沱の涙を流していた。


それから間も無く、暗闇の向こうの一枚の戸口を隔てた社殿の外から、聞き慣れた声が耳に入った。



「そこか。」



声と同時に、キィ、と暗闇に光が入り込んだ瞬間、少年の眼前は真っ白になった。
彼が意識を失う瞬間、微かに覚えているのは、腕の中の面が、まるで生きているように震えたことだった。









それから間も無く。
流れ商人の青年が、ある村で起きている不可思議な事件について知ったのは、月が変わった十一月のことであった。
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