小説
□keep a secret
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* keep a secret *
時刻は間も無く17時になる。
パソコンの時計で時刻を確認した鷹士は、手を止めて軽く一息ついた。
後30分少々で定時を迎える。
今日は残業にならなくて済みそうだ。冷めてしまったお茶を一口飲みながら、鷹士は退社後の事に気を馳せた。
家では、最愛の妹が夕食の支度をして待っていてくれるはずだ。
ヒトミが大学に進学してから、鷹士はかねてからの約束どおり、父の会社で働き始めた。
「これからはお兄ちゃんの方が帰りが遅いし、夕飯は私が作るね!」
初めはその言葉に難色を示した鷹士だったが、確かに、鷹士が帰宅した後に食事の用意をするのでは、夕食が遅くなってしまう。
その代わり、朝食と、休日の食事は今迄通り自分が作るという事で鷹士は渋々了解した。
だが蓋を開けてみれば、帰宅するとヒトミが笑顔で出迎えてくれて、温かい食事が出来ている。そんな新婚夫婦のようなシチュエーションは満更でもなかった。
今夜のご飯はなんだろうなー。ヒトミが作るものなら、何でも美味しいんだけど。
そんな事を考えて幸せな気分に浸っていると、内線が鳴った。気持ちを切り替えて受話器を取る。
「はい、桜川です」
『おお、鷹士か?今大丈夫か?』
電話の相手は父だった。だが、ここでは社長と社員なので、事務的な口調は崩せない。
「はい、大丈夫です。なんでしょうか?」
『ちょっと社長室の方に来てくれ。話がある』
「分かりました」
鷹士は受話器を置くと、眉を顰めた。
―― この時間帯の呼び出しは、ちょっと嫌な予感がするぞ。
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『え?お夕飯いらないの?』
「ごめんっ!!ほんっとーーーーに、ゴメン!!!!」
電話の向こうには見えないのに、鷹士は力いっぱい頭を下げた。
「父さんが急に、取引先との会食に同行しろって。大切なお客さんだから断れなくて」
『そっかぁ』
ヒトミの声は明るいけど、そこにはほんの少し残念そうなニュアンスが混じっている。
「父さんも、もっと前に言っててくれればいいのにさ。……もう夕食は作っちゃった?」
『あ、うん、大丈夫、餃子だから。お兄ちゃんの分は、焼かないで冷凍庫に入れとくよ』
「……本当にごめんなぁ」
情けない鷹士の声に、ヒトミは電話口でクスクスと笑った。
『仕方ないよ。お仕事でしょ?でも、高級懐石料理なんて羨ましいな!』
「兄ちゃんは、高級懐石料理よりヒトミの餃子の方がいい」
鷹士が即答すると、ヒトミは言葉を詰まらせた。多分照れているのだろう。
『……もう。ちゃんと取って置くから。お父さんのお供しっかりね!』
「ああ。出来るだけ早く帰るからな?」
『うん。待ってるよ。……じゃあね』
名残惜しげに電話を切ると、鷹士は携帯を見詰めて溜め息を吐いた。
大事な取引先の社長に息子を紹介するから……と言われたら行かない訳にいかない。
しかし、終業30分前に言いだすのは止めて欲しいものだ。
予め言っておいて貰えれば、ヒトミに余分な夕食の支度をさせなくて済んだ。何よりも、彼女に一人で寂しく食事させてしまう事に胸が痛む。
最初から判っていたら、梨恵ちゃんや優ちゃんと外食してくるようにも言えたのに。
「よし!」
とりあえず、一刻も早く帰る事を決意して、鷹士は父の待つ社長室へと向かった。
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