小説2

□悪夢
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黒い影に後ろから抱きすくめられた。

恐怖で全身が強張る。
逃げたくても逃げられない。


助けて……助けて……助けて……


叫ぼうとしても声が出ない。
汗が吹き出し、涙が滲んできた。


怖い……怖い……怖い……


絶望感の中、ヒトミはもう一度最後の力を振り絞って叫んだ。


―― 助けてっ!! お兄ちゃん!!!!



* 悪夢 *



「ヒトミッ!!」

強く名前を呼ばれて、ヒトミはハッと瞼を開いた。

飛び込んできたのは、心配そうな兄の顔。
2〜3度パチパチ瞬きをすると、瞳に溜った涙が目尻から伝い落ちた。

「……お……兄ちゃ……ん?」

小さく呟いてから緩慢な動作で辺りを見回す。

そこは鷹士の部屋。

いつも通り、寄り添い合って眠りについた幸せな夜の続き。

それを認識すると、急激な安心感に包まれ一気に力が抜けた。
鷹士が心配そうな表情のまま、ヒトミの額に汗で張り付いている前髪を優しい手つきで掃ってやると、彼女は弱々しく微笑んでその手に自分の手を重ねた。

「うなされてたぞ……大丈夫か?」
「うん……大丈夫」

そしてホッとした様に溜息を吐いて瞼を伏せた。

「……怖い夢見ちゃった」
「怖い夢?」

鷹士は一瞬眉を顰めて、それからハッと思い当たったように眼を瞠った。

「…………もしかして、あの時の……?」
「うん……もう何年も見てなかったんだけどね……」

苦笑するヒトミの背中に腕を回して、鷹士はその身体を優しく抱きしめる。そして宥めるように髪を撫でながら、耳元で何度も囁いた。

「……大丈夫、兄ちゃんがついてるから。ヒトミの事は絶対に兄ちゃんが守ってやるからな?」
「……うん」

頷くとヒトミも兄の背中に手を回して、縋りつく様にギュッと抱きしめた。


****


あれはヒトミが小学校3年生の時だった。

いつも通り学校が終わると彼女は帰宅の途についた。
途中まで一緒だった透と分かれ道でバイバイして、真っ直ぐ自宅へ向かう。

5月も半ばを過ぎて暑くもなく寒くもない良い陽気が続いていた。日も随分延びてきたので、帰ってからも明るい時間が長いのが嬉しい。

(夕方になったら、お兄ちゃんにお散歩に連れて行って貰おうかな)

そんな事を考えながら家が見える距離まで歩いてきたヒトミは、ふと自宅の前に見知らぬ人物が立っているのに気付いた。

背広を着た、少し小太りの男性。

両親の知り合い等、記憶を辿っても一致する顔は無い。
ヒトミは少し警戒しながら近づいて行った。

3m程手前に来た時、彼はヒトミの姿に気が付きパッと笑顔を向けてきた。

「こんにちは! 桜川さんのお嬢さんですか?」
「……はい……そうですけど」

恐る恐る近づくヒトミの、警戒心たっぷりな表情も気にしていない様子で、男はなおも愛想良く微笑む。

「お父さんかお母さんはいらっしゃいますか?」
「えっと……会社に行ってます」

このころ、丁度父の会社が軌道に乗り始めた時だった。
急に忙しくなって人手が足りなかった為、母はヒトミが3年生に上がったこの年から週に3日ほどパートで仕事の手伝いに行っていたのだ。今日はその日だった。

「あ〜、やっぱりお留守ですかぁ」

困ったように頬を掻く男性の表情は、丸顔なのも手伝ってコミカルで親しみやすい印象を醸し出している。
それを見てヒトミの警戒心が少し薄れた。



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