小説2

□はじまりの日
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「鷹士はね、お兄ちゃんになるのよ」

母からそう告げられたのは、鷹士が小学校に上がる年の初春だった。


* はじまりの日 *


幼い頃の記憶はあまり鮮明ではない。
どこかしら視界に靄が掛かっているような感じ。

両親は優しかった。家も昔から比較的裕福で、愛情とか金銭とか、何かに不自由した覚えは無い。
教えられる事も難なく理解できたし、やろうとする事は人一倍上手に出来た。友達と遊ぶのもそれなりに楽しかったし、周りにも好かれて可愛がられていたと思う。

なのに、幼い日の鷹士の心には、常に埋められない空虚な部分があった。

自分でもそれが何なのか、よく分からない。
毎日幸せで楽しいはずなのに何処かしら物足りない毎日。

そんな中で「兄弟が出来る」と聞かされた時も、あまり深い感慨は無く ――だけど、嬉しそうな両親を喜ばせる為に鷹士は歓声を上げて見せた。

「弟? 妹?」
「まだ判らないわよ。鷹士はどっちがいい?」
「う〜ん……妹かな!」

そう言いつつ、本当は弟の方がいいな……なんて思ってたりして。
だって、女の子だとどう接していいか分からない。弟だったら一緒に遊べるし、扱いも楽だと思った。

でもそう言わなかったのは、両親が内心「上が男の子だったから、今度は女の子が欲しい」と思っている事を知っていたから。

今思い出しても、冷めてて可愛げのない子供だったと失笑ものだ。

初夏頃にどうやら女の子だと判った時も、鷹士は落胆の色は見せなかった。

小学校に上がってからキャーキャー煩い女の子達に内心ウンザリはしていたし、去年兄弟が生まれたという同級生から「赤ん坊なんてサルだよ、サル! ギャーギャー泣いてばっかりだし、全然可愛くないよ!」なんて話も聞いていたが、まあ適当に面倒を見て、両親の望む『良いお兄ちゃん』になれる自信はあった。

それが表面だけのものだとしても。


そして、8月の終わり。


家で夏休みの宿題をしていた鷹士は、父から「生まれたらしいぞ! 妹だ」という電話を貰った。
父は今日、どうしても仕事が休めず出産に立ち会えなかったのだ。

会社から迎えに来た車に乗って病院に向かう間、鷹士は今まで感じた事の無いような緊張感に包まれていた。
どうしてだろう? 今日までは何とも思わなかったのに。

病院に着くとまず病室の母に会い、それから看護師さんの案内で新生児室へと向かった。
対面の時が近づくにつれ、胸の鼓動はどんどん高まっていく。

「奥の列の左から2番目ですよ。今お連れしますね」

そう言うと、看護師さんは隣のナースステーションへと入って行った。新生児室へはそちらを通らないと入れなくなっているらしい。だが、廊下に面した大きな窓からは部屋の中が見渡せた。
鷹士はガラスに張り付くように室内を覗き込んだ。

看護師さんが言った、奥の列の左から2番目のベッド。

「おお、可愛いなあ」

同じ様に覗き込んだ父が頭上で感慨深げに呟いたが、鷹士の目線からだとよく見えない。
何とか見ようと一生懸命背伸びしているうちに看護婦さんがベッドに近づいて、赤ん坊を抱き上げた。

そのまま彼女は、またナースステーションを通って廊下へ出てくる。

「お待たせしました! お父さん、お兄ちゃん、初めまして。お嬢さんですよ〜」

そう言うと、鷹士にも見える様に腰をかがめてくれた。


―― 真っ白いおくるみの中には、思ったよりもずっとずっと小さくて愛らしい……天使が居た。


色素の薄いフワフワの髪。眠っているのかギュッと閉じられた瞳。

鷹士は何の言葉も発する事が出来なかった。……胸がいっぱいで何と言ったらいいのか分からなかったのだ。



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