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□三角ビニール
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「ただいま」
近藤さんの手から買い物袋をひったくって、逃げるように我が家へ駆け込んだ私は、静かな廊下へ声を投げた。けれど、返事は無い。不審に思って新ちゃんの草履を探してみるけど、見当たらなかった。出かけてるのか。それなら返事が無くて当然というもの。納得して、私は重い買い物袋を上がり口に下ろして履物を脱いだ。
それにしても。
買い物袋の中身を冷蔵庫へ移しながら、溜息をつく。いくら寒かったからとはいえ、近藤さんの手を握り返してしまうなんて、私も馬鹿な真似をしてしまった。まだ近藤さんの掌の感触が残っている右手を、きゅっと握りしめる。侍らしい、剣ダコだらけのごつごつした手。あったかくて大きくて、触れているとなんだかほっとするような。
ああ、だめだめ。ぶんぶんと頭を振って、作業に戻る。だめよお妙、流されちゃあ。そりゃあちょっとドキッとしはしたけど、でも決して私のこの感情は、そういう類のものじゃないんだから。
近藤さんが買ってくれた食料を冷蔵庫に移し終えて冷蔵庫を閉めると、しんとした静寂に包まれた。かすかに耳を震わせる、冷蔵庫のモーター音。無機質なそれに手を触れると、じんわり温かい。我知らず、溜息が漏れた。
冷蔵庫に背をもたせかけて、座り込む。床は冷たいけれど、なんだか動く気になれなかった。無造作に放り出された空っぽの買い物袋を拾い上げる。
ぼんやりしながらそれを畳んでいると、玄関で何やら物音。はっとして腰を浮かせかけたけれど、「姉上、ただいま帰りましたぁ」という新ちゃんの能天気な声に再びずるずると座り込む。迎えに行かなきゃとは、思うのだけど。
「姉上?」
足音が少しずつ近づいてくる。新ちゃん、と小さな声をあげると、足音が速くなって、やがて私の前にその姿が現れる。
「姉上、どうしたんですか?具合悪いんですか?」
座り込んだ私を見た途端、裏返った声で言いながら私のそばへ寄って来て、しゃがみ込む新ちゃん。大丈夫よ、と微笑んでみせると、眉根を寄せて私の顔をのぞきこむ。
「ほんとですか?無理しないでくださいよ」
「無理なんかしてない。ほんとに、大丈夫」
証明するように立ち上がった私の膝から、三角に折り畳まれた買い物袋が転げ落ちた。それを拾い上げて、不思議そうな顔で新ちゃんが私を見上げる。
「めずらしいことしますね、姉上。いつもは適当に結んでそこの箱の中へ放り込んでるのに」
「たまには畳みたい時もあるわよ」
苦しい言い訳だとは思うけれど、私はさらっとそう言って新ちゃんの手から買い物袋を取り上げた。でも新ちゃんはめずらしく、難しい顔のまま引かない。きっちり折り畳まれた三角を目で追いながら、
「でも、そんなきれいに畳みますか普通」
「……何が言いたいの」
そう問い詰めると、新ちゃんは罰が悪そうな顔をして俯いた。
「いえ、そんな、何が言いたいとか、そういうんじゃなくて」
ごにょごにょ言った後、「ただ…」と小さな声で続ける。
「さっき、いやに機嫌のいい近藤さんと会いまして」
『近藤さん』というワードに、思わずびくっと肩が震えてしまう。でも俯いている新ちゃんには分からなかったみたい。よかった。
「挨拶したら、『お妙さんによろしく、義弟よ!』なんて、肩をばしばし叩かれました。眩しいくらいの笑顔で」
「そう…はた迷惑な人ねほんとに」
「ほんとにそう思ってますか?」
そう言って私を見上げた新ちゃんは、恐いくらい真面目な顔をしていた。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。その目とぶつかった途端、ああ、私はもう嘘をつけないなと心のどこかでぼんやり思った。
机の上で、湯呑がほんわりと湯気をあげている。まだつけて間もない炬燵の中は、うっすら寒い。伸ばした足をもぞもぞ動かしながらあったまるのを待っていると、籠に蜜柑を入れに行っていた新ちゃんが戻って来た。
「あれ、姉上、なんでストーブつけないんですか?」
「ああ、忘れてたわ」
つけます?と聞かれたので、頷く。机の上に置かれた鮮やかな橙の山に、今更ながらに冬なんだなあと思った。
「近藤さんのこと、好きなんでしょう?」
炬燵に入るなり新ちゃんにそう言われて、私はぐっとつまってしまう。なんだか今日の新ちゃんは容赦ない。
「前から思ってたんですけど、姉上、結構前から近藤さんのこと好きでしょう?」
「さあ……」
「さあって」
呆れたような新ちゃんの顔。だってほんとに、よく分からないんだもの。近藤さんに対する気持ちが、いつからゆらゆら揺れ始めたのか。
「最初はほんとに嫌いだったのよ。うっとうしいしゴリラだししつこいし」
本気で殺意を抱いた事さえあるんだから。そう言ったら、新ちゃんは苦笑した。
「そうでしょうけども」
「今でもよく分からないの。ただ、認めたくないだけなのかもしれないけど」
「何がですか?」
「私は、本当に近藤さんのことが好きなのかしら」
自分に問いかけるように、呟いた。たしかに近藤さんのそばにいると心がじんわりあったかくなる。でも新ちゃんのそばにいたってほっとするし、銀さんといても落ち着く。私の近藤さんへ対するこの感情は、好きは好きでも、家族や友人へ向ける好きと同じものなんじゃないか。
「じゃあ聞きますけど姉上」
「なに?」
「姉上、僕といて落ち着かないと思ったり、逃げ出したいと思ったりすることありますか?」
「そんなことあるわけないじゃない。弟なんだから」
「銀さんは?」
「ない」
「近藤さんは?」
聞かれて、考える。近藤さんと一緒にいると…。
「ちょっと…落ち着かないかも。そわそわするというか」
「それが、好きってことです」
「は?」
ぽかんとした私を見て、新ちゃんはにっこり笑った。湯呑を両手で包みこんで、ほうっと息を吐く。
「僕や銀さんといても感じることのないそのそわそわが、何よりの証拠です」
「いやに自信たっぷりじゃない」
「自信たっぷりですよ。当然ですよ。ってかね、傍から見てると丸分かりなんですよ、姉上が近藤さんのことどう思ってるかなんて。だからもうイラッイラしちゃって」
『イラッイラ』に力を込めて新ちゃんは言う。
「なんて素直じゃないんだこの人は!って。近藤さんはああやって毎日好きだ好きだ言ってくれてるんだから、一言姉上が『私もです』って言えばいいだけなのに。何をモタモタしてるんだろうと思ってほんとにイラッイラしてました」
蜜柑の皮をむきながら、新ちゃんはおかしそうに笑った。私はむっとして、湯呑に口をつける。温かいお茶を喉に流し込むと、少し気分が落ち着いた。
「だってあんなゴリラに惚れたなんて信じたくないじゃない」
拗ねたように言ったけど、「ほらまたそうやって嘘つく」と一蹴される。悔しくて、私は蜜柑を新ちゃんの顔面向かって投げつけた(良い子は真似しないように)。
「うわっ!ちょ、眼鏡かけてるのに!危ないじゃないですか!」
「うるっさい」
眼鏡を外してレンズを凝視している弟をぐっと睨みつけてから、上体を倒して机の上にぴとっと頬をくっつけた。そのまま目を閉じて、ゆったりと息を吐く。
「あ!姉上、雪が降ってますよ!」
新ちゃんの浮かれた声に目を開くと、ああ、ほんと。新ちゃんが開いた襖の向こうで、ちらちらと空から舞い落ちてくる白い粒。入り込んでくる冷気にさらに炬燵の中へもぐりこみながらも、その小さな白から目が離せない。
「積もりますかねえ」
期待のこもった声に、積もるといいわねとこちらも期待のこもった声で返して、小さく笑った。
近藤さんも、気付いているかしら。もし積もったら、迎えにきてくれるかな。「お妙さん、雪が積もってますよ!」なんて。「ちょっと出かけませんか?」なんて。今日みたいに、鼻とほっぺを真っ赤にして。
想像して、また笑いが漏れる。あの人ならきっと、来てくれる。
きゅっと右手を握り締めて、優しい体温を思い出しながら、目を閉じた。
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『林檎』続編でした。
やっぱり新八は家族ですからね、お妙さんの気持ちにはとっくに気づいてますよね。
それでなくても気ィ遣いですから、他人の気持ちを推し量るのはうまいでしょうし。
お妙さんってなんでも笑顔で隠しちゃう人ですけど、こういう類の感情はなかなか隠せない人だと思います。
(2010.1.11 緋名子)